楊口の郊外へ
結局、町の中心部をぐるりとまわったことになるのだが、量販店といったものはいっさい無い。そしてどんな町にも一応あるのが「市場」である。楊口の街にもあの独特なアーケードの市場がある。衣料品と食品が中心のちょっとしたヤング市場は、昼過ぎだからか人通りは少ないが、縄跳びをする子どもなどいて、何となく下町風の安心できる雰囲気が漂っている。
再び旅館の近くまで帰り、一服して今後の計画を練ろうと喫茶店を探した。日本と同じような外見の喫茶店もあったが、入ってみると、日本の昔のジャズ喫茶みたいにとてつもなく暗く、地図も見えないのでやめた。バスターミナルの近くが中心地らしくそのあたりにはPC房がいくつもあった。10はくだらない。
郊外に行けばなんかおもしろい所があるかも知れない。小高い丘に登ればいい展望が開けるところがあるかも知れない。ということで、楊口大橋の方に歩いていった。まず左手に学校(中学校)があり、学校はすでに始まっているのか、生徒の下校が始まっていた。テニスコートでは、小型ローラーを生徒が二人乗りで操作している。次に左手に軍の宿泊所のようなところがあった。街には多くの軍人が闊歩しているがここに拠点があるのか。
ところで、不思議なのは伝統的な作りの古い家がまったくないのである。さらに、神社・仏閣はもちろん、他の宗教的なもの日本で言えばお地蔵さんとか祠、五輪の塔、お堂といったものがまったくない。墓地らしきものもさえ見あたらない。ただ教会だけは、異様にきれいで大きいものが、次々と現れる。しばらく歩くと左手は山なのだが、何とも不思議なのが、一切その山に登る道が見あたらないということだ。それはすなわち山の木々の商業的な利用、または上に建物や畑がないということだ。植生は雑木林でそれほど大きな木々はなく、人工林でもなさそうだ。しかし例えばキノコ狩りやドングリ拾いといったレジャー的な山の利用もしないのだろうか。これらのことは、この街全体が朝鮮動乱の戦場でほとんどのものが破壊つくされた後、再建されたからかも知れない。しかし自然と人とのつながりの希薄さは鼻につく。やがて右手は田圃が広がり、その光景は日本と全く同じで、そろそろ実り始めた穂がちらほらする稲がある。よく見ると田圃のあぜ道が泥もりのところが多く、そういう意味では日本のちょっと古い風景とも言える。
右手にドルメンと緑を基調にした極彩色の小さな建物が草むらの中に建っている。それらは、ステンレス柵に囲まれていて、前にそれぞれ説明版がある。ドルメンは幅二メートルのものが二つ、建物は、まず朱の貫構造の4本の柱と柵で石碑を囲み、その上に波を打ったように沿った入母屋の丸瓦の多い立派な屋根がのる。ハングルなのでよく分からないが、朝鮮とか憲宗、復元とか書いてあるので、19世紀中頃の建造物で、復元されたものらしい。結局、この史跡以外この町では歴史的な建造物を見ることはなかった。
2002' 8/23