三崎八幡神社

 三崎町は、日本で最も多い神社である八幡神社の総本社である宇佐八幡宮にも近く、八幡信仰の厚い地域であると考えられます。言い伝えによれば、千年以上も前、京都の石清水八幡宮をつくった翌年に、この神社は建てられたと伝えられています。

 明治維新までは、大社正八幡宮という名で、三崎町全域に加えて瀬戸町の大久、田部までの氏神であったようですが、次第に各地区に神社が建てられてきたので、三崎八幡宮はこの地区の総氏神とされるようになりました。過去に何度も社殿は作り直され、現在の社殿は江戸時代末期に建てられたものであると考えられています。昭和54年に町の重要文化財に指定されました。
 

組頭の屋敷

 三崎町の平礒集落の中程にある大きな建物が、江戸時代に平礒の組頭をしていた梶原氏の屋敷です。組頭というのは村の大切な三つの役(庄屋、組頭、横目)の一つです。庄屋の補佐的な仕事をしており、集落の中で最も有力な者が任命されていました。町内でも組頭の屋敷は他にもいくつか残っていますが、その中でもこの屋敷は、一部が改造されてはいますが、最も昔の面影を残しています。

 当時の平礒の人々はイモや麦などの農業のほか漁業も営んでおり、その中心となるこの屋敷には「おとこし・おなごし」と呼ばれる使用人もたくさんいて、その使用人が住む使用人部屋も残っています。屋根の正面中央にある家紋は「並び矢」であることから、梶原氏の先祖は武家であったのかもしれません。
 奥の部屋には、天皇の祖先とされる天照大神をまつった神座敷があります。入り口の奥には、写真のようなえびす様(大漁の神)や大黒様(豊作の神)をまつった神棚が、昔のままに残っています。玄関の右手は、昔は築山になっていたそうで、その奥には池の跡があります。その周りには四季の花を咲かせる樹木が植えられていたそうです。大きな松やヒノキ、そして春を告げる大きな吉野桜は、平礒集落では特に目立つ存在であったといいます。他にも屋敷の横をみれば、「たては」という今では珍しい青石の石組みなどもみられます。

 現在の所有・管理者は、地元の浅野さんに移っていますが、建物も老朽化して、右側が少し傾いている他、雨もりなども多く、根気強くその維持に努めておられるようです。


 
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