串の宝筐印塔

 串集落の西(県道の切り通しの上)にひっそりと宝筐印塔が立っています。今でこそほとんど訪れる人はいませんが、この場所は串集落から佐田岬漁港へ下る旧道が通っているところで、多くの人が行き交った場所です。
 本来この塔は、宝筐印陀羅尼経を信仰するための塔ですが、後年は墓石としても使われるようになりました。この宝筐印塔の建立については詳しいことは分かりませんが、江戸の中期に村人によって建てられたものではないかと考えられています。

坊塚の五輪の塔群

 昭和54年三崎の赤坂の道路工事現場で、多数の五輪の塔が出土しました。ここの地名が坊の鼻といい、寺があったと考えられており、一部が地表に出ていたため、古くからその存在は知られていましたが、これほどたくさんの五輪の塔が出てくるとは予想していませんでした。出土したこれらの石片を並べて、現在は「五輪塔群墓地」として整備しています。その形状や材質などから九州の国東半島との交流が盛んであったことが考えられますが、詳しい記録は残っていません。

宇都宮誠集の記念碑

 「おいでよ三崎」の歌詞の一番に「春はおいでよ 三崎の山に 黄金鈴なり夏みかん 本場物だよ日本一」とあるように、三崎町は良質のみかん栽培が盛んです。その三崎にミカン栽培を広めたのが、松出身の宇都宮誠集(のぶちか)です。
 彼は青年の頃、宇和島で栽培されていた夏柑に興味を持ち、苗を二、三本自宅に持ち帰って研究し始めたそうです。三崎村郵便局に勤めながら、明治16年、山口県から150本の夏柑の苗木を購入して、まず松の自分の畑に植えました。そして、夏柑の裁倍について村民を説得してまわったそうです。
 そして明治28年、三崎村の五人が芋畑をつぶして夏柑を植えました。それをきっかけとして、多くの農民が夏柑畑をつくっていくようになったのです。それまでの三崎の農民の生活はとても苦しかったといいます。それをなんとか解消していきたいという彼の切実な思いが通じ、夏柑を作り始めてから、農民の生活は少しずつ楽になっていきました。そして現在に至ります。
 その後彼は、50歳で郵便局長を辞職し、明治40年、53歳で亡くなられました。そして功労に対してこの記念碑が高神様のそばに建てられました。そして毎年2月には彼の慰霊祭が盛大に行われています。


 
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