いきめは、流れ着いた二名津で阿部とおくらんどという漁師に出会ったそうです。
そして死の間際に、
「私をいきめ八幡として祭ってくれ。」
と頼んだのだそうです。
いきめは二名津の寺の隣に社をたてて祀られました。
これが二名津の「生目様」の由来です。
さて、阿部とおおくらんどは、いきめ様に頼まれたたくさんの事を、九州までも伝えに行ったそうです。
これは事実であり、阿部とおくらんどの石碑が今でも残っているそうです。
阿部とおくらんどの子孫は大阪の方へいったそうで、その人の名は阿部ひでたかという名だったそうです。
三崎地区にたくさんの生目神社の社がありますが、立派な本殿や拝殿があるのは二名津だけです。拝殿格子天井の絵馬が近年見つかり現在は当時のままの姿に戻されました。
夏には例祭もあって、高台にある生目神社の前には写真のように富士山をかたどった明かりが灯ります。
神事は慈照院の住職が行いこの地域の神仏習合の形が残っています。
神社の拝殿には生目様のお姿を描いた掛け軸や彼の残した
「いきめ八幡、水鏡、影清く、すえの山でもくもらざりけり。」
という歌もあります。
生目神社の拝殿には聖水の入った坪と小さなひしゃくが置いてあります。昔は医者などいなかったので、生目様の水を目につけて治療したり、目につけたり飲むことで目の病気にかからないという御利益があると信じられていたりしたそうです。
※ 生目神社について(補足)
生目神社は日向(宮崎市)の生目神社が全国的には有名で九州各地にたくさんの分社があります。眼病に効能のある目の神様として有名で、目が治った方々からは鏡が奉納されるようです。三崎地域のお寺などの片隅に鏡がたくさん奉納された小さなお社があり、それは生目神社の分社です。佐田岬、特に名取や西部地域は恒常的に水不足だったので毎朝顔を洗うことすら贅沢とされました。そのためか目の病気が多かったと思われますので、生目様の信仰が根強く残っているのだと思われます。以下の縁起とは多少の食い違いがありますがこの半島に残る平家の落人伝説の一つだと考えられます。
日向の生目神社縁起によりますと、壇ノ浦の戦いで源氏との戦いに敗れた平家の勇猛な武将の平景清(かげきよ)が神格化されたとされます。彼は源頼朝にその武勇を惜しまれて命は助けられ日向に流されます。僧侶となりますが「源氏の繁栄する世を見たくない」として自分の両目をえぐり取ったとされます。そんな父を訪ねてくる娘の人生の悲哀を綴ったドラマティックな古典芸能「景清物」としても能や歌舞伎で舞われています。