名取の生活の移り変わり 

 明治以前の生活を考えてみると、急傾斜面を切り開き、さつまいもや麦を作り生活をしていた。
明治において、七回にもわたり南西の季節風のため生活の道を失い、「ほぜ」を二日がかりで煮て食用にして飢えをしのいだが、耐えられず、日向(宮崎県)の地まで食を求めて移住した者も多いと言われている。
それを俗に「日向だおれ」といっている。

また、三十四年に大火があり、地区の大半を焼失し、住むに家なく、着るに着るものなく、着のみ着のままで、食するにも食べる物すらなく、八幡浜.西宇和.喜多郡東.南宇和郡はもちろん、遠くは中.東予地方からも援助を仰いでいた。
このように、この地域の住民の生活は、なみなみならぬ苦労の連続であった。

 大正の世に入ると、牛の飼育を大久にうばわれたような感じがするが、時代の流れとともに養蚕の生活が始まった。
その最盛期は十年ころだっだという。そのころは桑苗を無料で配布し、県も養蚕に力を入れていたという。
網はシュロで編んだものであった。

 昭和になり、産業開発が各地で行なわれていたが、名取では明治・大正と生活の貧困の波があい続いた。
他の地域との比較にならぬ衰退の状態で、出稼ぎによる生活源の確保しか方法がなかったのである。
多くの男達は家をあとに、九州、中国地方へと出て、ここに出稼ぎによる生活の歴史が始められた。
しかし、この苦難の生活も峠を越え、ようやく春の訪れが感じられるときが来た。

 急傾斜面で、標高200メートルに足らない地域であるため、水不足がこの地の最大の課題であった。
それまでは、天水を砂ごしして飲料水と防火用として使っていたが、昭和20年頃、総工費三百数十万円を投じて簡易水道が設置されたのである。


  出典:二名津中学校「郷土の昔話」・・・平成4年度 山下房子(名取43歳)伝,編集:消火器たかちゃん(5201)