陸路がそのようなものであったが、あの頃は、三崎から八幡浜までの移動は、「八幡丸」と「しげひさ丸」という定期船を利用するのが一般的でした。このような船を通い船とも呼んでいました。
八幡浜までは2〜4時間かかっていて最初のうちは1日に3回往復していました。しかし陸路もよくなってきて客が減っていくと、その回数は減ってきました。
当時の名取の浜は、乗り降りのお客さんでにぎわっていました。二名津や釜木や平礒への客も名取で乗降するからです。
定期船の中は、この半島の人々のコミニケーションのとれる場だったように思います。
このように交通の便が悪かったので、食品も今のようにいつも安定して卸すわけにもいかず、食べ物が不足していてとても困ることがたびたびありました。
今では便利になった反面、このこきのようなのどかな光景が見れなくなったのが残念に思います。
編集:KK(5206)