戦艦大和

 昔、第二次世界大戦中のことです。
 日本が敗戦間近になったときに、日本海軍が誇る巨大戦艦大和が神戸港から沖縄方面に向けて出発しました。
大和は、瀬戸内海を通り、佐田岬半島をまわって豊予海峡をぬける航路をとりました。
その時、灯台からは佐田岬灯台の沖を通る姿が見えたそうです。
それからしばらくして大和は沈められたのですが、佐田岬灯台の沖を通った時のことは今でも有名です。
それで、三崎町の老人達なら誰でも知っていると言うことです。
 このときの話では大和は、神戸港から出発したとありますが、実際には昭和20年4月6日 沖縄特攻突入作戦命令を受け、徳山沖で燃料4000トンを搭載した後、軽巡洋艦矢矧および駆逐艦8隻(朝霧、浜風、磯風、霞、涼月、冬月、雪風、初霜)と出撃しました。そして大和は4月7日米艦載機386機による攻撃を受けて、爆弾6、魚雷10を被弾し、午後2時23分徳之島の犬田布岬沖90海里の海域に700mの火柱を上げて沈没したということです。
 大和は1941年に呉海軍工廠で、極秘の内に建造(総排水量68100トン、全長263mで世界最大)された巨大戦艦で決して撃沈されることのない浮沈戦艦と言われていました。同じ巨大戦艦武蔵が撃沈されたレイテ沖海戦に出撃しましたが、大和は発砲することもなく呉軍港に帰還し、この時まで江田島か倉橋島の要塞地帯に隠されていたそうです。江田島の海軍兵学校跡に、大和の砲弾のサンプルがあるそうです。


  出典:二名津中学校「郷土の昔話」・・・平成2年度 垣内庄八郎(名取58歳)伝,編集:とも(5407)