昔は漁業も盛んだったようで、漁港には大きな施設のあったと思われる石垣が残っている。そして写真で見て分かるように斜面にへばりつくように形成された集落と段々畑ばかりが広がる平礒の農業はほとんどイモと麦が中心だったようだ。今は晩柑栽培が中心で、うわさによると勤勉な特性のためか三崎地域の高額収入の番付では平礒の農家が占める割合が大きいという。他の地域の人の言によるとそのまじめさは「平礒の人にはかなわん」と定評である。 特に防風林の剪定の仕上げは芸術ともいえるもので、その刈り方を見るとすぐに平礒人の畑だと分かると言われる。きれいに剪定することを「平礒のように」という形容詞も使われている。周辺の人たちに聞いてもに完璧な仕事をする人が多いようで、農繁期には朝もおどろくほど早くから倉庫に灯りが灯っている。でも、それだけ仕事に熱心な平礒人への妬みがこもった陰口として「平礒に嫁ぐと苦労するから嫁には行かせるな」といった声もかなり聞いた。でも、私は多くの平礒の嫁を知っているが、どの方も真面目でいつも生き生きしていてネガティブな印象を持ったことは皆無である。
平礒集落は斜面にあるため地域全体が青石の石垣に被われた集落であるともいえる。そして水利という点ではかなり苦労したことが推測される。左写真は集落の中ほどにある貴重な水場である。ここには水神様が祀られているが、普通は集落の入口にある大草鞋も毎年ここに吊されている。水場を守ることがこの集落では第一だったのだろう。
平礒の石垣はこの写真でも分かるが、斜め積みや落とし積みを多用した力強い石垣が多い。三崎町時代には文化財に指定されていた右写真の組頭の家の庭の石垣は、それ自体が青石の芸術のようでもある。昔の組頭の姓は「梶原」であったが、今は別の方が引き継ぎ、屋敷は傾きながらも残っている。ちなみにこの集落の姓は「浅野」「梶原」「宇都宮」「河野」の4つだと言われている。
三崎町商工会が出している地域紹介ビデオ「海山風人」で清見栽培の一家として紹介されているのもここの梶原さんである。私は、浅野さんからこの地区のことを聞くことが多いが、梶原さんとも農業のことで少し話したことがある。その話からも代々実直な平礒の人の人となりが感じとれた。
この平礒のお寺(仏木寺)は、表札は公民館だが平礒の集会所も兼ねていて集落の最上部にある。上の農道がなかった時代はこの集会所に行くにはおっちらおっちら石垣の道を上がっていくしかなかった。入口には立派な六地蔵が並び、ソテツの巨木が被うように茂っている。昔は隣にブランコや滑り台も設置された小さな広場があって、当時の賑わいが想像できた。
写真のように盆踊りなどの地域行事はこの集会所で行われており、全住民が集える手頃な空間で家族的な地域行事が行われている。結局集会所には自動車が横付けすることができず外部の人はたどり着けないことが多いので、イベントや行事によっては県道沿いのJAの集会所(倉庫?)が使われることが多い。
集会所の近くには古民家である喜久屋を使った活動組織があって、平成19年からミカン栽培の農繁期に若者が集まって共同生活をしながら地域交流をするという活動を行っている。ここには国際ボランティアNGO:NICEとの連携で国内外からさまざまな立場の若者が毎年のように集まって活動している。私もいろんな立場で一所に活動したことがあるが、若者が少ない地域によい刺激を与えるとともに近隣の学校の国際理解教育に貢献している活動になっていると思われる。
三社神社は県道の下にあるが、近年まで国土地理院の地図では県道の上にあった。いろいろな人に聞いたが、昔、土砂崩れで現在の地にで落ちてきたということらしい。しかし、現在の鎮守の森にはかなり大きいイチョウとエノキの巨木があるのでその時代はかなり古いようだ。また、三社神社の秋の例祭の行事が近年行われたという記憶はないが、昔はこの石垣の集落の坂を牛鬼が練り歩いていたのだそうである。
三社神社から港に下る道筋には「山神様」と呼ばれるタブの巨木がある。現在は台風で大枝がいくつか落ちてしまったが、以前は半球の見事な樹木の宇宙を一本だけで形成し存在感を放っていた。
さて、平礒というと水底線陸揚室のことにふれないわけにはいけない。この施設は平礒からも釜木からも岩陰に隠れる位置にあるので、平成9年まではまったく公的に把握されていなかったものである。地域探検ブームの中で平礒の中学生が、よく分からない面白い造りの施設を秘密基地としていると言ってきた。伍助会でも調査を行ったがどう見ても民間の施設とは思えず、どこを調べても記録がない。そこで、近代遺産にくわしい専門家でもある知人の岡崎直司氏に写真を送ったのである。するとその価値に気づいた岡崎氏が即座に実態調査してこの施設が「水底線陸揚室」であり、その造りと保存状態のすばらしさから保存されるべき近代遺産として公開された。そして結局、平成15年に岡崎氏の推薦で国の登録文化財となってしまったのである。
この施設は佐賀関からの通信用海底ケーブルを陸揚げした通信施設である。がっちりとした御影石の石垣、れんがタイルを使ったドイツ壁風で入口はアーチ状の庇がある珍しい造りの建物である。
とはいえ、現在のところここへの歩道は整備されておらず、たどり着くには知っている者の案内が必要な状態である。なお、三崎地域からは観察できないが、神崎の半島からはその存在が確認できる。
釣りの好きな人は佐田岬の釣り場というと長崎鼻という岬の名前がすぐに出る。正野にも長崎鼻があるが釣り人のいう長崎鼻は平礒のある半島の先端のことである。魅力的な釣り場であるこの長崎鼻の磯場ではあるが、実は遭難事故も多く、その場合、二名津や平礒の地域の消防団が中心となって捜索をすることになる。釣り客は地域にとって何の益もない(ゴミは遠慮なく落としていってくれるが..)であることも自覚して、地域でのマナーを守り、安全や連絡の対応をきちんとして、せめて迷惑を最小限に止める努力をしていただきたい。
平礒漁港の片隅に右の写真のような石彫が佇んでいる。実は、平礒の漁民の豊漁と海の安全を願っていた立派な鯛を抱く恵比寿像である。今はここから出港する漁民はほとんどいないが、今はこの海域での豊漁と海難事故がないようにと海を見つめているように思えるのは私だけだろうか。