神松名村では東部の中心集落で、昭和51年度まであった釜木小学校には平礒の児童も通っていた。運動会では釜木の上と下、平礒の三つどもえでの地区対抗競技に盛り上がったそうである。釜木小学校の校舎は今はないが跡地には鉄筋の集会所ができた。グランドは駐車場として使われているが、名取石の校門と陶器の二宮金次郎像が今も残っている。
釜木の集落は、写真のように天満神社や集会所のある県道より下と来迎寺のある上とに分かれている。名取方面からの断層谷を北に流れる舟瀬川と地獄谷を源流とする釜木川がつくる下の平地が集落の中心である。集会所を平礒の方に少し上った土山(どやま)という墓地の手前には青石の石垣に組み込まれた子安観音がある。寄進の品々から厚い信仰を集めていることがわかる子安観音だが、その左上にある猫神大明神という祠がちょっと気になる。この近くに昔は昔ミゾウ寺というお寺があったそうだ。しかし、その寺は大雨後の土砂崩れで海側に落ちてしまったと伝えられている。
釜木の港は二段構えになっている。地形的に波が穏やかで青石の突堤の石垣が美しい奧の旧港へは車道が通じておらず今ではほとんど使われていないようだ。この旧港からまっすぐ上ると、神松名村役場のある二名津への釜木越えの赤道(生活道)となっている。釜木湾は湾内各所に壇ノ浦の戦い平家伝説が多数残っていての落ち武者が多数この半島に逃げ込んで苦労した物語を伝えている。また海賊の拠点であったという伝説も残っている。佐田岬半島の瀬戸内側は高級石材である伊予の青石が多く採取されていた時代があって瀬戸の三机港はそれで栄えたという話も聞く。今では海岸線の手頃な大きさの青石はあまり見られなくなっていて採取も禁止されている。その点釜木集落から東の海岸は何かの事情で採取されなかったのか青石の大岩が連なり、昔の瀬戸内側の海岸線の姿が残っている。
舟瀬川沿いには天満神社、その奥には出張診療所の廃屋が残っているが、このあたりに釜木小学校の講堂があったという話もあってその残骸と見られる廃材も残っている。天満神社の境内はかなり広く、顕著な枝垂れのあるイチョウの老木がある。また拝殿の横にはしめ縄をされたアコウ樹が見られる。境内には菅公の使いであるなで牛の石造があって素朴な天神信仰が偲ばれる。
この天満神社の秋の例祭は今では廃れてしまったが、人口の多かったころは一度に七頭の牛鬼が集落を練り歩いてにぎわったこともあったと古老は語る。天満神社の拝殿に残る片方の角のない写真の牛鬼の首もその一つだったにちがいない。釜木も過疎化が進んでおり、小学校の閉校に続き神社の上にあった診療出張所も閉鎖、何軒もあった商店も次々と営業を止め、ついに平成29年末1軒残っていた商店が閉めてしまい交通弱者は移動商店に頼ることとなってしまった。なお、天満神社の入口前にある祠は平家の落人を祀ったものであるらしく今でもお世話をしている方がいる。
さて、釜木には財宝伝説がある。地獄谷を根城にしていた「おこのごろ」という海賊が隠したとされる財宝である。天満神社の裏山にあたる舟瀬川と釜木川に挟まれた尾根のピークを金比羅山といい、山頂には航海の安全を見守る金比羅神社があったのだが、今はその残骸が残るばかりである。昔は金比羅さんのお祭りがあって相撲大会などが行われ賑わったそうである。その山頂の近くの枯れ谷が地獄谷で、伝説によると金比羅山の朝日と夕日の当たるところに7つの小判の入った壺を7並びに埋めたのだそうだ。いろんな人がこの宝を探したようだが未だ見つかってないそうだ。この金比羅山の登り口の大岩の根元には写真の十一面観音が祀られている。今ではここより上に上って行く人を見ることはまずない。
集落から舟瀬川を上って行くとやがて谷は狭まり砂防ダムに突き当たる。ここからさらに上はなだらかな谷筋の赤道になっていて、そのまま上るとあっというまに名取集落の入口である名取口に出ることができる。陸上交通が不便だった頃は、神松名の交通の拠点は名取港であった。多くの人がこの道を通って名取から八幡浜や九州へ向かったのだろう。しかしこの赤道も今では生活道として誰も通る人はいないようである。伍助会でも年に一度程度通るが、高低差の少ない明るい道で森林の散歩道としては上質のものであると思うのだが。
なお、国道197号沿いの神崎口バス停や水本ガソリンスタンドや生コンがあるあたりも行政域としては釜木地域となる。バス停前に巡礼満願の石碑や鼻四国八十八ヶ所の石仏がある他程度で民家はないが、交通の要所でありこの谷には埋め立て処分場ができたり風車が立ったりしている。