串は大きく3つの地区に分かれている。西の「半田」、そして串の中心集落(先・上・下・坂:さこと分けられるがほとんど密集していて境はよくわからない)、そして「浜」である。中心部は日当たりのよい南面が傾斜がきつく崩壊しやすい崖になっていて、みかん栽培ができる場所が少なく漁業集落である。特に旧三崎町の漁業の特徴にもなっている海士の多くは、この地区に住んでいる。同じ西地区でも奔放な正野と違い、勤勉で堅実なのが串地区の住民の特徴となっているのも海士の生き方に由来しているのかも知れない。
半田地区は若い後継者も多い地区である。県道を三崎から西進し、与侈への三叉路をすぎてしばらく行くと、右手の瀬戸内側に下る車道(「カモノハシ」の看板)がある。ここを下ったところが半田である。最近、港のすぐ上まで道路ができて港までの利便性はよくなったが、心ない釣り客が増えて悩みの種が増えたとも聞く。ほとんどの漁師は佐田岬漁港を母港としていて漁船を見ることは少ないが、青石の石垣の美しい港である。半田には犬が多くよそからの侵入者には遠慮なくほえる。名取石ではないかと思われる大理石含青石の石垣が見られたり、キツツキのあけた穴に人形が突き刺さっている倉庫があったり、五輪の塔があったりで、なかなか退屈しない集落でもある。また、串や与侈すら記述のない地図の多くに、数軒しかない小さなこの半田が記されているのも不思議である。
串の中心集落は瀬戸内側の海岸段丘の上に形成されており、西部地区唯一の病院(診療所)、天満神社、集会所、小学校跡等がある。上部を通る車道から見下ろすと、集落を見渡せる丘にちょこんと集会所があって、その北側に共同墓地が広がる。集会所の前の広場は小さいが、遊具もあり子どもたちの遊び場にもなっていて平成前半あたり前までは保育所として機能していた。
盆踊りは特にこの広場に多くの人が集まってにぎわう。おそらく旧三崎町内の盆踊りの中ではもっとも温かく活気のあるものであろう。集会所の下には劇場の跡があって、今でも切符もぎのカウンターが残っている。そのあたりが串の中心で、鏝絵のある屋敷も何軒か見られるので、裕福な時代があったということだろう。「涌出庵」という庵寺は、整備状況も良く信仰の厚い人々も多くいるのであろう。
集落の東側上部に小学校跡、診療所、農協の出張所、天満神社などの施設が集まっている。天満神社は北向きのため薄暗いが、敷地一面が苔におおわれていて美しい。鉄筋の小学校跡(串小学校のちに佐田岬小学校)は景観的にはミスマッチであるが、西部地区が孤立した場合の拠点にするための施設が整備された。小学校は写真のように窓の小さい一見怪しい加圧式の本格的な放射線防護避難所に改装され、本格的な発電施設や食料や水や排便資材等も備蓄された。私も内部を見せていただいたが、この施設の閉鎖空間に避難民が長期間滞在することには精神衛生上の問題があるように思われるので、課題の洗い出しのための検証をしてもらいたいものである。また診療所も放射線防護設備として改築されている。
そこから峠を越える赤道が通っている。正野や灯台方面へ向かう車は新しくできた農免道路を通るが、それができるまでは集落の西と東に信号があって、交互通行であった。小学校跡の前は、離合するために広くなっていて、そこには小学生の描いた西部地区のすばらしく個性的な案内地図?がかかっていた。
串地区には以前は個性的な文化的行事があった。天満神社の秋の例祭は、三崎地区で与侈に次いで早い9月25日に行われていて歴史は浅いながら速水太鼓という子ども太鼓や保育所(集会所で営業していた)の子ども御輿もあった。若者による演芸芝居なども旧三崎地区で唯一平成時代まで生き残っていた。敬老会の演芸なども見応えのある楽しい地区だったが、小学校もなくなり今ではその文化も廃れつつある。
串を含め三崎の西部地区は水の便に苦しめられてきた。名取のように雨乞いの慣習は聞かないが、各地にある井戸を見ると水神をていねいに祀っていることでよくわかる。また、少し山にはいると各所に見られる貯水槽からもその深刻さがよくわかる。近年、南予分水整備事業はこの半島の隅々まで行きわたりそのような危惧を一掃したが、水を大切にする心だけは残してほしいものである。
この集落を下ると傾斜がきつくなり、やがて草つきの崖となる。さらに下るとツナル漁港がある。昔は串の主要な漁港として栄えたのであろうが、今の漁船は佐田岬漁港を母港としている。今では簡単な作業小屋の並ぶ閑散とした港で、シーズンには一面にテングサやヒジキやワカメが干してあったりして、趣のある漁港の光景が見られる。うわさによると、港周辺の貯水池や沢あたりでイシガメが何匹も見つかるという。
串の人に聞くと、昔の西部地区は陸続きながらただでさえ孤立している三崎地区からも孤立している地区だったので、近年まで生活の全てが地区の中で処理できるようになっていたようだ。豚舎も複数ありゴミ処理などの公共事業もかなりの部分が西部内で独立して運用されていたわけだ。それがこの地域の人の高い生活力の源になっているのかも知れない。ちなみに、内之浦から三崎へは「菊丸」という船が結んでいて、昭和の高校生の通学もこの航路が利用されていたようだ。
串地区から佐田岬漁港のある浜(内之浦)に下る道は生活道としても重要で、通学路や通勤路として多くの人が通っていた。旧道の下り口にあるのが、宝筐印塔でその由来はよくわかっていない。現在の車道は切り通しになっていて、長い階段の歩道が付け替えられたので、今では宝筐印塔周辺は人はほとんど通らない。切り通しの反対側にはミサキ大師の祠が建つ。どうも三崎全体に弘法大師信仰が根付いており串地区の中心がこのミサキ大師らしい。伊方町になる前は弘法大師の命日にはお籠もりやお接待があった、私も鯨塚の少し上で、お接待のおにぎりの並んだもろぶた持っていたおばさんからお接待を受けたことがあった。お接待文化を知らない人はびっくりするだろうが、二名津のようにスポンサーがついているのではなく、単に個人の信仰でのお接待に厳かな気持ちになった。
浜地区には串中学校跡、串郵便局、三崎漁協事務所、水産加工場などがあり、現在では旧三崎町の西地区では重要なエリアである。浜に下ったところには高い防風坊波青石の石垣がある。この地には、冬の間日常的に凄まじい北風が吹くのでその対策としての石垣なのであろう。ここには鯨を供養する大きな青石の塚がありベンチもあるので、このあたりのお年寄りの憩いの場となっている。その前の加工場には、公衆便所と誰を対象にしたのか疑問の感じられるトイレもある公園も作られている。お年寄りに聞くと、中学校跡のあたりは田んぼだったそうで、貴重な米を生産していたそうだ。
そこから海に出ると、独特な形の岩がそびえ立っている。そこは、竜田碆といって、戦時中は豊予要塞の施設がここにも建造される予定だった。佐田岬漁港のある内之浦は今では幾重にも防波堤が設置されているので、宇和海側ながら湾内は年中静かであり佐田岬漁協の拠点となっている。黒潮にのって迷い込んでしまう熱帯海水魚もこの湾では多く観察される。
串中学校には正野小学校、串小学校、与侈小学校の卒業生が通っていたが、平成5年に与侈小学校が三崎小学校と統合して与侈の生徒は三崎中学校に通うことになった。串中学校自体も平成16年に三崎中学校に統合となる。その跡地は体育館のない正野小学校と串小学校が統合した佐田岬中学校が移転することとなり、小学校規格への改築と給食施設などの増築が行われた。しかし、検査の結果耐震改修促進法をクリアできず、佐田岬小学校は急遽串小学校跡に開設されることになった。めまぐるしい学校統合ラッシュでかなりの税金が無駄に使われてしまったことになるが、グランドはヘリポートとしていざというときには役だってくれることになっている。
この串の浜から北に広がる広い断層谷からは多くの古代史蹟が見つかっており、かなり昔から集落が形成されていたと思われる。この谷を登ったところが「みのこし」で、そこには漁協の直営店「漁師物語り」が営業していた。そこから北はハマカンゾウの群生も見られる崖になっている。お年寄りに聞くと、野坂神社の例祭には、二名津等の瀬戸内からの人はここに船をつけて、最短距離で野坂神社に向かったそうだ。
漁師物語りの上には中山間事業によって、平成14年串集落への車道ができた。その上には、「いこいの広場」という公園がある。この広場には串の人の特質を表す逸話がある。この公園は、串の老人や子供達のまさにいこいの広場として作られ、それほど広くはないが、クロッケーができるコートと子供達が遊べる遊具も設置された。ここには電子水準点、通信用アンテナが立っているので、その見返りの事業だったのかもしれない。さて、結果としては残念なことに集落から少々離れたところなので不便なのであろうが、実際には誰も寄りつかない公園になってしまった。串のお年寄りはボール遊びよりも動ける間は少しでも仕事をする生活を選んだようであり、といって串の子どももわざわざ辺鄙なこの広場へ来る必要性もないのである。近年は年一回やっていた草刈り作業もやらなくなってパンダも草木に埋もれつつある。しかし、半島が狭まったところにある見晴らしの良いこの公園はバードウォッチャーの聖地である。電子水準点をはじめ各種アンテナが設置されたが、人が全く来ない上に車道が通じてトイレもありその渡り鳥観察には最適な条件が備わっていることには今も変わりない。
さて、串には誰でも知られているジョウリイッポ伝説がある。そこに行くと、草履をくれという声が聞こえるというのだが、実害はないあやかしのようだ。その原因についてはよくわかっていないが、名取のうら越えにも草履に関する伝説があり、同様な伝説は、愛媛県ばかりでなく高知県にも多く伝わっている。昔は、間引きや堕胎した子をこっそり土に埋めることがあり、その死んだ幼児(水子の霊:妖怪「のつご」)が原因であるという。夜道を歩いていて、突然足がもつれたり、悲鳴や赤子の泣き声をたてたり、背後から草履をくれと言って追いかけてくるというのだそうだ。対処法としては、草履の鼻緒を通すための「チ」とい小さな輪を与えればよいとされるが、現代人はどうすればよいのであろう。近年風力発電用の風車がこの尾根筋に林立するようになって低周波音が止むことのない地となって、せっかくのジョリィポの声もかき消されてしまい不満がたまっているのではないだろうか。