松地区

 伽藍山の北面の海岸段丘上に形成された旧神松名村の集落が松である。近くに隣接する集落がなく集落の独自性が保たれていると予想されるが、西の与侈集落はこの松の一部の民が移住してできたとされている。北の半島の先端には見舞崎灯台があって、周辺は鬼の血によって赤く染まったとされる紅色片岩の奇岩の海岸となっていて釣り客には人気がある。
 現在は海岸線の車道が整備されているが、神松名村の中心だった二名津に行くには明神の泊に抜ける峠道を抜けていくことになり、昔の中学生はここを歩いて二名津へ向かった。また、三崎へはつん越えといわれる伽藍山の頂上近くの肩を通る長大な赤道を通ることになる。この長大な生活道は古くは宇都宮誠集、そして今のお年寄りの時代には三崎高校への通学の道等日常の生活道として使われていたことに驚く。松の人はバイタリティーのある活動的な人が多いが、その地域性はこのような環境の中での生活の中から育まれたのかもしれない。
 松集落の西に仁田の浜という無人の地域があるが、なぜか多くの地図に記載されている。一応突堤もある海岸なので栄えていた時代があるのかも知れないが、聞くと以前は数軒の世帯があったようである。

   松の集落のある段丘には中心を流れる前浜川へ何本かの谷川が流れ込んでおり、その間にいくつかの丘陵がある。その一番大きな丘が松の中心地で、そこには鉄筋の集会所とお寺(聚楽庵)と墓地、出張診療所(写真にはあるが現在は撤去)がある。そのすぐ東の丘に天満神社がありその下が集落が一番密集している地域となる。集落の北部を県道が東西に通っていて県道のすぐ下に現在唯一の小売店となってしまったJAがある。他の集落と離れているために昔は多くの商店があったが、お宮の傍の渡辺商店が平成20年頃店をたたんでからは一般の商店は皆無となっている。JAの近くの広場は遊具が設置された児童公園だったが、子どもがほとんどいなくなって現在はクロッケー場となっている。
 天満神社の境内は結構広いが、今は秋の例祭に幟が立ち神事がある他は特別行事はないようである。たまにお神楽をやってもらうとの話もあるが私は見たことがない。今では秋のぎんなん拾いに来るくらいであるが、拝殿の天井の絵馬の絵はなかなか立派である。お宮の少し上に梅の彫り物のある小さな祠があるがこれについても特に話を聞くことはない。
 お寺にはさまざまな仏像があるが、興味をそそるのが建物の横に安置された右写真の像である。これはつん越えにあったお堂に祀られていた俗称:つん越え様である。松地区には歩くと一日かかるような三崎地域一のミニ四国八十八ヶ所巡礼路(興味のある方は下の資料を参照)が整備されていて、つん越えの峠がその中間地点でお籠もり用のお堂があって、祭日には相撲大会なども開かれていたのである。しかし、そのお堂は明神の中川災害復旧工事の際に重機が入る道沿いにあったため解体されてしまった。その際にお寺に持ってこられたようである。さわやかな笑みを浮かべた色白の初々しい青年仏像ではあるが、どうも弘法大師座像のようである。お寺の中にはもっとリアルな弘法大師座像があるので比較してみると面白い。なお、松のミニ四国八十八ヶ所は1番が港、そして伽藍山の北面をぐるりと回り八十八番の結願がこのお寺であるわけだ。コースが時代と共に不鮮明になっているので伍助会でも何度か調査し目印をつけている。しかしさまざまな工事などで札所の石仏を動かされたりして不明な箇所が増えている。信仰も平成の初め頃は弘法大師の月命日にお籠もりする人があったという話を聞いたので、お接待などもあったのだろうが最近はそれもよく分からない。

 街の中を歩いていて一番目が止まるのが水場である。佐田岬半島ではどの集落も水神を祀り水場を大切にしているが、松の水場は集落の中にあり、昭和の時代に普通に見られた近隣の主婦が洗濯や炊事で集まる社交の場であった風情が残っている。写真の左右は前浜川沿いの水場、中右が県道の下の大河原の水場、そして西舞の水場である。私がこの地を最初に訪れた平成8年には大河原の水場の下にその水を利用したかいわれ大根のハウスが営まれていて、歓迎の意でたくさんのかいわれ大根をいただいた。しかし、奇しくもその年O157事件の風評被害の波でこの小さな産業も消し飛んでしまった。

 集落から丘陵の尾根伝いの道を下るとほどなく大きな広場に出る。これが昭和51年まで松の子どもたちが通った松小学校の跡である。校舎はないが大きなフェニックスや楠、滑り台そして紀元2600年記念で建てた陶器の二宮金次郎像が残っていて当時を偲ぶことができる。ここには花見でもしようと桜がたくさん植えられたが、集落から離れているためか利用者がおらず、今はほとんど放置され草ボーボーの状態になっている。
 松漁港は小学校跡のすぐ下にある。本来「松」の由来は「真津」だったそうなので良港なのだろう。実際全体が青石の大石で組まれた大きな港で青石のすべり、素朴でがっちりした船蔵など他の漁港では見られない味わいのある漁港である。川を渡ったところに松のミニ四国八十八ヶ所一番札所があるが、二番から後は東の小山にジグザグに上って行き尾根を伝って伽藍山に登るようになっている。この高台のピークには豊漁を願う恵比寿様が祀られており、恵比寿の古い面も寄進されていた。
 方位的に冬場はまともに季節風を受ける漁港なのだが、そんな環境で漁をする漁師の気風も松人のバイタリティーのもとになっているのかもしれない。松漁港周辺は広い平地があり多くの施設があったと考えられる。最近アワビの養殖場も営まれたが今は止めているようである。いくつかの別荘も建てられているが、あまり人を見かけることはない。

 松といえば三崎柑橘の祖:宇都宮誠集の出生の地であることで有名であるが、彼は三崎郵便局の初代局長で三崎郵政の祖でもあるともいえる。三崎郵便局で務めながら、夏みかん栽培を広める活動を行っていたが、松と三崎の間のつん越え道を毎日歩いて通勤していたというだけでも現代の柔な若者とは違うといえる。人間は歩くときにいろいろと考えを巡らすそうであるが、彼にとってその力はつん越え道で育まれたものであるにちがいない。
 彼の功績は県の生涯学習センターにコーナーがあってそこに展示されているが、平成3年に地元の中学校の生徒がまとめて県の文化会館で発表している。誠集さんの記念碑は三崎の高神様の隣に建っている。彼の家は今の松の集会所のすぐ前で建物は残っていない。しかし平成3年の発表の原稿の中にもあった夏柑は、玄関の門と共に右の写真のように残っている。また、彼の業績を刻んだお墓も松の集落を見渡せる東の尾根ぞいの墓地に残っている。

 松には「佐田岬半島の初盆行事」として国の選択無形民俗文化財(H22)になっている「もうな」という行事がある。未婚の女性とされる着物を着せ裾すそにアワビ貝をぶらさげた大きな人形を作り、それを初盆の家の人たちがお寺や神社で地面を軸に「モーナ、モーナ、モーミードーブ」のかけ声でぐるぐる回す。この人形は盆踊りの櫓にもくくりつけられそれを回りながら松の人は盆踊りを踊るのである。松ではこの一連の盆行事が最大の地域行事で、焼トウモロコシや焼き鳥などがこの行事に集まる縁者に振る舞われたり、ときには松出身の「サスケ」のコンサートがあったりと楽しいひとときを過ごすことができる。
 三崎地域の学校教育は学業よりスポーツ優先の気風があり、地域の良さを伸ばせるような人材が順調に育っているとはいえず若い地元の教育者がほとんどいないのだが、令和元年現在三崎高校に2名の松出身の教員が地域に根付いた教育の実践に奮闘している。このHPには神松名地域の昔話や資料が多いが、これらの資料をつくったのも中学生時代の彼らであった。小学校や中学校というと三崎地域に統合されてしまい、地域学習の盛んだった二名津中学校や串中学校校区の小中学校のよい活動が受け継がれていないのが残念である。たまたま松地域については以下の二名津中学校のデジタルデータが複数残っているので参照して当時の松を思い出してもらいたい。


参考資料: 松地域の昔話  松地域調査(H11二名津中学校)  松八十八ヶ所調査(H11二名津中学校)

        宇都宮誠集が育てた柑橘栽培(H3二名津中学校)  つんごえ道(H13二名津中学校)