正野地区

正野地区

 正野は、佐田岬半島の最西端、四国最西端の地区である。だから、ここにある施設には「四国最西端の...」という肩書きが使える。佐田岬半島のほとんどの地区は、人家は集まって集落を形成しているのに対し、正野地区だけは人家が地区内に点在し一軒家(独居老人の世帯)も多い。正野の東端(串地区との境)は佐田岬漁港の真ん中に突き出た山の尾根だという。ちょうど漁協の給油所あたりが境だと思われるが、その東の断層谷の中程にある駐在所(無人、放射線のモニタリングポストがある)は正野になるそうだ。

 地図ではこの佐田岬漁港周辺は内之浦、野坂神社のあたりは野坂と記述されているが、一般には浜と呼ばれ、東に続く串の浜と区別するために正野浜という場合もある。
 この浜地区には野坂神社を中心として比較的人家が集まって集落を形成しており、旅館(民宿)大岩、旅館金沢の二つの宿泊施設もあり、JAの出張所や給油所もあり、以前は商店もいくつかあって正野の東の中心地域である。金沢旅館の前には停留所があり、佐田岬灯台行きの定期乗り合いタクシーが停車する。
金沢旅館の前には昔は阿弥陀池のような潟湖があったが、今はほとんどが埋め立てられてその多くが旅館大岩の駐車場等の施設になっている。とはいっても湿地特有の植生も見られるし、降雨期には各所に水たまりができてイモリなどの水生生物も今の棲息しているという報告もある。
野坂神社の裏山の尾根から南に続く石垣は、この半島でも最大級の青石の防風・防波石垣であり、町見郷土館の石垣を扱うパンフレットの表紙にも使われている。この長大な石垣より東は宇和島藩の殿様のお狩り場だったそうである。それでここより以西の集落は明治以後に形成されたものかもしれないし、人家が点在する原因があるのかもしれない。この石垣の東の佐田岬漁港の一画には種苗センター(アワビの稚貝を飼育)がある。

野坂神社は旧宇和島藩が代々厚く信仰する神社で、江戸時代〜昭和初期の例祭(旧暦6月14・15日)はこの湾には参詣の人と船であふれたと伝えられている。瀬戸内側からの船は串のミノコシに停泊して参詣したそうだ
野坂神社の由来は、タコが抱いた仏像を兄弟の海士が引き上げたことによる。それを祀った社を正野の浜地区に移転したのが現在の野坂神社である。佐賀関の早吸日女神社にも同様の言い伝え(引き上げたのは海女)があり、例祭ではタコの絵だらけになる。正野でもタコを食べないという共通の習慣があって、今でも双方の神社の例祭には各代表が参加している。今ではタコについてはこだわる人はほとんどない。ちなみに明神の薬師堂の本尊もタコが抱いていたものだそうである。
この野坂神社の例祭では、「豊漁(ホウギョ)祭」という漁協主催のイベント(出店・コンサート・花火大会)も平行して行われ三崎町最大の地域イベントであった。しかし、伊方町への合併と共に他のイベントとの競合?によって豊漁祭はゴールデンウィークに変更されることになった。さらに、漁協の財政問題もあって現在は豊漁祭は開催されなくなった。現在、野坂神社の例祭の神事は本来の例祭日に地域行事として細々と行われているが、昔の賑わいを知る者にとっては驚きの衰退となっている。

 浜から西に行くと、車道はつづら折りになるが、生活道はまっすぐに西に伸び、その道沿いに数軒の家が集まって「旭」という集落を形成している。旭からそのまま西に下ると大浜と呼ばれる浜に出る。旧三崎町には砂浜は少ないが、この大浜は比較的広い砂浜になっている。
 この旭地区の上、山全体に点在する家々の地区名を成(なる)という。山の頂上部はなだらかで、正野の共同墓地が広がる。現在は葬式は自宅や集会所で行われることが多いが、ここには小さな広場と家屋があり正野の寺として、ここで告別式が行われていたという。平成28年からは住民規模を考慮して夏の盆踊り(8月14日)は正野小学校からこの広場で行われるようになった。この広場に石仏が集められているがそれをみると番号のついたものが多い。これはこのあたりにミニ四国八十八カ所巡礼路があったことを示す。現在調査中であるが、成の山を中心とした広い地域にわたって何カ所か番号の刻まれた巡礼路の石仏を発見している。しかし、かなり昔に廃れたらしく、地域のお年寄りに聞いてもほとんど実態がわからない。そして平成30年にこの山域の尾根上に風車が9基設置された。もちろん四国最西端の風力発電施設である。小ぶりの風車ではあるが、点在する民家に近くその騒音が懸念されるところである。
 成の西部の北側の山の斜面には平地はほとんどないが、家が点在している。この地域は、国土地理院の地図には「牛の久保」や「一本松」と書かれているが、地域では一般に北側を表す「上手(うわて)」と呼ばれ、その多くは一軒家(独居老人も多い)である。
 その西部に西宇和郡でも最も大きいといわれるイチョウの大木がある。昔は子供達も集まって遊んだ場所だったそうだが、今ではほとんど人が訪れることもなく、大木にもかかわらず見つけるのも困難になっている。このあたりには平家の言い伝えや遺物らしきものも残っており、地理的にも壇ノ浦の合戦後流れ着いた者がいてもおかしくない。正野の変わった集落形態も平家の落人と関連があるのかもしれないが、それを研究した資料は見当たらない。

 正野地区の中央部にある集落が藤の見(藤の実?)である。ここには正野小学校跡と集会所があって正野の中心である。とはいっても、土地自体は狭く、小学校跡を中心に家が密集している。この集落の北端には井戸があって、水の不便なこの地では重要な場だったに違いない。むしろこの水の便こそがこの集落の原点だったのかもしれない。この集落は外観からは分かりづらいが、正野集会所がありその奥には正野小学校跡がある。この小学校はレトロな木造建築で近くの豊予要塞佐田岬第二砲台の試射では窓ガラスが多数割れたり、太平洋戦争末期に本土決戦のために灯台周辺の兵舎が不足したときには板壁がはぎ取られたりと、戦争とも関係の深い小学校であった。スポーツが盛んだったこの小学校の正面の斜面には保護者によってアスレチック遊技場が作られたこともある。このあたりから西は瀬戸内海国立公園内となるが、この小学校の外壁に描かれた素朴な海の生物の絵が当時の正野の子どもの奔放な気質がうかがい知れる。2005年にこの校舎は使われなくなり、児童は東の串小学校の校舎へ通うようになった(佐田岬小学校と改名)が、その佐田岬小学校も2014年に三崎小学校へ統合となった。さて、この地域は小学校の深く関わった亥の子行事があった。分散集落の正野での亥の子行事は大変だったと想像できるが、2005年の統合で廃止となりこの地区の子供たち集団が関わる地域行事は皆無となってしまった。

 藤の見からまっすぐ北に伸びる断層谷正野谷という。ここは陸生の蛍であるヒメホタルの生息地であり植生も独自のもののようである。しかしその上部の道路工事と河川の改修工事により環境が大きく壊されて一時はヒメホタルはほぼ絶滅に近い状態になってしまった。数年間ヒメホタルの棲息は確認できていなかったが、平成29年に行ってみると一晩に6匹ヒメホタルが観測された。
 この正野谷を下ったところが正野浜で、漁港になっている。この谷の途中に西に向かう広い道があるが、そこを少し行くと豊予要塞の第二砲台があった。今でも4門の30cm榴弾砲の砲座跡や弾薬庫跡があり、当時塗られていた迷彩色も今も鮮やかに残っている。ここへの広い道はその運搬路で、その下の港は軍用のものであった。この半島では平積みや乱積みの石垣が多いが、この道沿いでは矢羽根積みでがっちりとした石垣になっている。これも軍用道路(軌道が敷設されていた可能性も大)であったためであろう。正野浜の港、正面にまっすぐ伸びる桟橋は当時の軍用桟橋で、近代遺産として国の文化財として登録されている。海底から高射砲の薬莢が見つかっており伍助会にいただいたが、三崎中学校に寄贈した。

 藤の見から車道を西に行くと、数軒の家があるがこのあたりが影の平であり、大きな屋敷には龍の四国最西端の鏝絵がある。ここから下ると漁港があり、ビジャコ岩の尖岩が眼前に迫る。集落から流れる沢は港の前で滝となっている。この港にも多くの家屋跡があるが、串と正野の漁師のほとんどは佐田岬漁港を母港としており、他の小さな港同様今では船が入ることは少く、もっぱら釣り場として利用されている。ただ、青石の石垣や恵比寿の祠などの素朴な漁港の風情とそれがビジャコ岩の向こうに沈む夕日に照らされる風景は、今では得難い貴重な原風景であろう。
 影の平の上には「蜂の巣」という集落、そしてさらに上の頂上近くには「大滝」という集落があるが、今ではともに数軒の家屋が残るだけで子どももいない。尾根上の展望の良い大滝には、豊予要塞第二砲台の観測所跡(ここから宇和海側の敵艦船の照準調整を行い、山越えで第二砲台から砲撃するシステム)がある。また、このあたりの集落の共同墓地も山中にある。なお、伊方原子力発電所が深刻な事故を起こした場合の避難エリアである30km区域(東は内子町や宇和島市の一部も含まれる)はこれらの集落より東となり、同じ伊方町ながらこの地がいかに中心地から離れているかがわかる。

 ここより西の地区は一般にお鼻と呼ばれるが、車道が通じる港のある瀬戸内側の「長浜」と、宇和海側の「水尻」の集落に別れる。その分岐点あたりに波切り不動尊という民間宗教のお堂がある。
 瀬戸内側は長浜の旧菊池商店を境としてここから西、宇和海側は水尻の西にかけて、終戦まで軍の管理域となっていて、「陸」と書かれた境界標が各所にある。その西は日本陸軍の豊予海峡の重要な防衛拠点の一つであった。軍の地域であった現在の長浜集落には軍の海底ケーブルの中継所があったが、今はその形跡は残っていない。戦争遺物は金属を中心に民間人によって処理されたとされるが、爆発物取り扱い事故も相当数あったという話も聞いたことがある。

 長浜から西に行くとトイレもある広い駐車場に出て車道の終点となる。そこから西の佐田岬灯台に行くには30分ほど高低差のある遊歩道を歩く必要がある。ここから先の灯台周辺の説明は、ここをクリック!


参考資料: 正野地域の昔話